沿革
昭和40年代に岡山県内にも本格的な室内スケートリンクが、岡山市や倉敷市に相次いでできると、競技を目指してスケートに取り組む人々が現れ、クラブや同好会が結成されました。
こういうクラブと同好会が中心となって、昭和44年4月に岡山県スケート連盟が設立されました。
当時は専門的な知識経験を持ち合わせた指導者は皆無に等しく、選手とともに想像を絶するような手探りの努力をされ、連盟設立の翌年45年の第25回国体へ初の選手団を派遣することができました。
昭和48年の第28回国体では、スピード高校男子で2位、フィギュア高校女子で8位と初の入賞を生むに至り、翌49年の第29回国体においてスピード高校男子で念願の初優勝を飾るなど、選手層の薄さ、リンク事情の悪さを関係者の努力で克服し、スピード・フィギュアともほとんど毎年のように国体で入賞を果たしてきました。
ところが、昭和48年に岡山国際スケートリンクが夏季の営業を止め、さらには昭和55年には倉敷市のリンクが閉鎖されたことにより、選手数は激減し競技レベルも低下するなど、極めて大きな影響を受けました。
このため、倉敷地区の関係者及び連盟が一体となって、新しいリンクの設置を関係機関に働きかけた結果、平成4年11月にサンピア倉敷のリンクがオープンし、またシーズンのみの営業であった岡山国際スケートリンクが経営者の英断により平成6年から通年営業に踏み切ったことで、岡山のスケート環境は一気に改善されました。
連盟としても、底辺の拡大を図るべくスケート教室の開催や学校関係へのPRを進めたことにより、髙橋大輔をはじめとする優秀な選手が育っていき、国体にとどまらず全日本や国際大会で多くの選手が活躍しています。
しかしながら、平成20年3月にサンピア倉敷が閉鎖・売却される危機を迎えましたが、全国からの暖かいご支援を受け、平成21年に加計学園が購入しヘルスピア倉敷として存続することになりました。
設置後50年以上経過し老朽化した岡山国際スケートリンクが、平成23年5月にはリニューアルオープンし、ヘルスピア倉敷も平成26年12月から通年営業化したことで、県内に通年営業リンクが2つという全国でも極めて恵まれた練習環境になっています。
平成18年のトリノから26年のソチの髙橋大輔、平成30年の平昌の田中刑事選手と冬季五輪に4大会連続で岡山県出身選手を輩出しておりますが、連盟としては今後とも県内スケートの普及、有能な人材の発掘・育成に努めてまいります。
組織図
定款
財務・事業